概要:現存12天守の一つ「備中松山城」は、岡山県の備中高梁駅から北へ直線距離で3km程の臥牛山(4つの峯から成るという)最高点(標高487m)から400m程南標高約430mの小松山山頂付近を中心に城郭が築かれていて2層2階の天守閣が現存する、まさに「天空の城」と呼ぶにふさわしい険しい峯に建つ山城だ。現存天守の山城として最も標高の高いところに建つ城で、ふいご峠から山道を登り城の入口「大手門」跡に立つと切り立った荒々しい岸壁の上に石垣が組まれその上に狭間のある純白の土塀が天空に突き刺さるように見えた。

1683(天和3)年、水谷勝宗(かつむね)による大修築で今の姿になったとか。「備中松山城」は、岩村城(岐阜県恵那市岩村町)、高取城(奈良県高取町)と並んで日本三大山城の一つだ。

備中松山城は戦いの砦として山頂に築かれ、麓に「御根小屋(現在県立高梁高等学校)」という御殿を構え実際の政務はここで行われ、武家屋敷などもあり城下町が形成されていたという。国土地理院の1/2万5千地形図で見ると備中高梁は高梁川の東に南北約2500m、東西約500m程の狭い盆地にあり、砦としての城が山頂に築かれた理由がここにあるようにおもえる。

アクセス:ふいご峠(備中高梁駅から峠までタクシー利用)から本丸まで山道を徒歩約25分(麓の登山口からだと約1時間)
その他:「高梁市観光ガイド(備中松山城)

ふいご峠:麓の登山口からだとこのふいご峠(8合目)まで徒歩で約40分を要し更にここから25分ほどの山道を登る長丁場で健脚向きといえるだろう。この日は四国松山(愛媛)からなので時間的な余裕を見て備中高梁駅前からタクシーで8合目のふいご峠へ行きそこから登山道を歩くことにした。
備中松山城:ふいご峠からしばし狭い山道を登る、やがてこのような道となり城郭が近いことを想わせる。
備中松山城:しっとりと汗をかいた頃、木の間越しに屹立した岸壁と石垣、土塀が見え隠れしてくる、あと少しで城郭の入口だ!
備中松山城:「大手門」跡と「足軽箱番所」跡、山上に突然出現する険しい表情の城郭に圧倒されてしまった。
備中松山城:尾根伝いに城壁と土塀がくねくねと続く石段を登る。
備中松山城:四角の矢狭間と丸の筒狭間がある三の平櫓東土塀(国重文)は山上の風雪に耐えて残った往時の土塀。
備中松山城:「二の櫓門」跡、石段を上ると「二の丸」跡の広場、天守の一部が姿を現す。
備中松山城:二の丸跡広場にある備中松山城の沿革と備中松山城復古図の写真(主要部分をトリミング)。
備中松山城:二の丸広場から見る天守閣、写真左から「六の平櫓(復元)」、「五の平櫓(復元)」右上が「現存天守(国重文)」土塀は復元。ここから見る天守は2層2階層塔型。櫓の石落とし、土塀の狭間など戦いの城としての防備も備えている。
備中松山城:本丸の石垣と土塀(復元)、山城の雰囲気が漂う。天守への入口「本丸南御門(復元)」へは左の石段から。
備中松山城:「六の平櫓(復元)」と「五の平櫓(復元)」の間にある「本丸南御門」から天守を見る、ここから見る外観は3層2階にも見える。正面唐破風と出格子その下に石落としとこの城の特徴的な部分だ、他に外観的な特徴として大きな連子窓が設けられていることだろう。天守内部に入るとわかるが、外光がよく入り天守内が明るい、天守としては規模が小さく戦いの城というより麓の「御根小屋」が主で山城は権威の象徴としての意味合いが強かったと推測してみた。直近では平成の大修理(平成13-15年)が行われている。
荒々しい自然の崖の上に天守台の石垣が組まれている。入城受付で”山道で大変だったでしょう、ご苦労様”と声をかけられた、観光客より登山者の方が多いのだろうか、二の櫓門跡に登山の標識が立っていて大松山へ0.6kmと書かれていた。
 備中松山城:天守左側の入口より入る、ここからが天守内で、右に天守台の石垣が露出している。天守入口が側面にあるためこの1層目の覆い屋が造られたのだろうか?
備中松山城:この狭い開口部が実質的な天守入口なのだろう。とすれば2層2階の天守閣といえそうだ。外から見ると入口の真上は千鳥破風。
備中松山城:天守1階、四方の連子窓からの光で明るい天守内。正面奥の床に長方形の囲炉裏が設えてあった、天守では殆ど例がないらしい。はめ込み写真は、連子窓を天守内から見たもの、内側から外を見やすくするために格子が三角柱になっている。
備中松山城:1階から2階への階段、天守内梁組の様子。
備中松山城:2階天守最上階北側に設けられた「御社壇」、1683(天和3)年、松山藩主水谷勝宗(かつむね)による修築完成の時、一国一城の守護神として3振りの宝剣を奉納しているとか。
備中松山城:遙か下に高梁川を俯瞰する、標高差約360m天空の城を実感!
備中松山城:天守裏に建つ「二重櫓(国重文)」、2層2階。
備中松山城:本丸東脇から見る「本丸東御門(復元)」、奥左「五の平櫓(復元)」同右「六の平櫓(復元)」
県立高梁高等学校:帰りは登山口まで歩いた、登山口から小高下谷川に沿って200m程下ると「御根小屋」跡の高梁高等学校へ。この辺りは「石火矢町ふるさと村」で武家屋敷を見ることができる。麓は桜の季節だった。